常に慶びを授けるお山 日蓮宗 蓮長寺について
蓮長寺は創建以来、数多の方々のご協力と支えを賜り現在に至っております。
これからも子々孫々に受け継がれていく伝統や仏教の本質を守りつつ、高いと思われてきたお寺の敷居を低くし、楽しい日・辛い日・嬉しい日・悲しい日・どんなときもつい足を運びたくなる。そして地域の皆さまの心の拠り所として開かれたお寺を目指し歩んで参ります。
ごあいさつ
蓮長寺復興中興である第26世本良院日仁上人より、平成11年に蓮長寺第27世の住職を受け継ぎ、養珠院お万の方様の心願と歴代住職の想いを後世に残すべく邁進しております。山号の【常慶山】と掲げるように『菩提寺が蓮長寺で良かった』・『蓮長寺にお参りして良かった』・『この場所に蓮長寺があって良かった』と常に笑顔になって頂ける、そしてお人と共に心を養えるお寺でありたいと精進して参ります。
蓮長寺第27世住職 永田壽英 |
昭和28年、遠くは九州の福岡の地に生を受け、叔父である第26世本良院日仁上人の招請を受け、静岡の地に参りました。 |
日蓮宗蓮長寺の歴史
正保元年(1644)徳川3代将軍家光の時、徳川家康公ご側室養珠院お万の方様の発願で、お万様のお化粧料をもって、駿府獄の死者、無縁の行路病死者等の霊を弔うために長嶽院日永上人を開山として当時の三友町寺町通りの小寺、現在の常磐町の常磐公園付近に建立されました。
安政の大地震に悉く崩壊し、数世代を経た後、第17世事円院日理上人の代に再興を試みましたが、明治初めの類焼の災難に遭い、宝物・什器・古記録等を消失してしまった。
ちょうどその時に、明治維新の変革に際し復興の力なく本山貞松蓮永寺の戦国武将で法華経を篤信されていた加藤清正公を祀った清正堂を移し本堂としてようやく存続していました。
昭和6年に第23世龍仙院日鳳上人の代に木造入母屋瓦葺本堂及び庫裡を建立、その時の大きな外護者である、「法運 小林幸太郎先生」・「法得 武田弥三先生」の法華経お題目正行を中心とした修養報恩会が静岡に教線拡張の拠点として当山を求められ、少数のお檀家の皆様と報恩会の有志篤信の浄財を得て無事に建立することが出来ました。
昭和20年に戦災にて一朝灰燼に帰し一物もなし、幸いにも第23世龍仙院日鳳上人の石橋婦人の努力で宗祖日蓮大聖人尊像と蓮長寺過去帳を守り焼失をまぬがれた。
昭和21年、第26世本良院日仁上人が蓮長寺の法燈を継承し住職に従事し、直ちに戦災バラックの配給を受け、六畳一間に御宝前、押し入れははり出し、座布団一枚、湯呑一ヶもなき状態、静岡大火後、静岡市都市計画、霊園墓地造成に伴い、旧寺町三友町・現在の常磐町の常磐公園付近より現在地に移転、正に無壇無縁少数の墓地移転等々。
昭和23年、蓮長寺復興の第一段として本堂の建立、当時の貞松山蓮永寺住職日量上人の計らいで、雨もり激しく補給の余地なき崩壊寸前の一切経蔵堂を末寺復興の為と譲りうけ移転改造、蓮永寺世話人で名工匠石川豊吉氏の手により立派な本堂を建立することが出来ました。
その後、昭和24年より現在に至るまでに、本堂・客殿・書院・庫裡・尊神堂・山門・水屋・位牌堂・西側通用門を建立し、平成3年に第26世本良院日仁上人の念願であった納経三重之塔を多くの檀信徒様・有縁の有志の方々のご協力を賜り、完成建立することが出来現在に至りました。
寺院・境内紹介
本堂
正面1 |
正面2 |
内部 |
御本尊・御宝前 |
鬼子母尊神堂
外観 |
内観 |
御本尊・御宝前 |
三重之塔
三重之塔の外観 |
三重之塔の内観 |
喜徳稲荷尊天
喜徳稲荷尊天のお社 |
喜徳稲荷尊天の御神体 |